いつもありがとうございます。鳥爺です。
生まれて初めて小鳥屋から買った鳥は、レース鳩かペアの鳩が悩んだ末ペアの鳩を購入しました。700円でした。
これは当時の私の2ヶ月分のお小遣いです。
その場で鳩を連れて帰り、自宅に着いたのが夕方になってしまいましたが、帰宅後、予め用意していたリンゴ箱を組み合わせ、鳩小屋を作りました。
当時のリンゴ箱は段ボールではなく木製の箱です。
1羽の予定が2羽になってしまったので、作り上げるのに時間がかかってしまい、父の車のヘッドライトを照らしながら作りました。
しかし我が家にとって大事な車を勝手に使ったことで、途中父が気づき殴られそうになったのです。
不幸にも兄は先に殴られ、その隙に私は外に逃げました。温厚な父が初めて怒った瞬間です。
兄と私が逃げ出したので、怒りの矛先が鳩に向かってしまうと危ないということで、母も鳩が入った箱を抱えて一緒に逃げてくれました。
最後は母が仲裁役になり父の前で土下座して謝り、何とか鳩も無事に飼うことができた次第です。
ほろ苦い思い出はさておいて、その後本格的な鳩小屋を作りました。
幸いには父の仕事は建築塗装だったので、現場からいろいろな木材などを無料でわけてもらいました。繁殖ができるように巣と巣皿も購入しました。
ペアの鳩は、そんな私の想いに応えてくれて、我が家に来てから2週間後には産卵しました。尊い命の誕生です。
そして2個産卵したうち1個が孵化しました。尊い命の誕生に心が躍りました。
親鳩から献身的な愛に支えられ、ヒナもすくすくと育つ様子を見るのが楽しみです。時間さえあれば鳩小屋の前に座りこんで見続けていました。
でも一応小学生なので学校に行かなくてはなりません。この時ほど登校拒否したいと思ったことはありません(苦笑)。
孵化してから2週間くらいたったときです。学校が終わり急ぎ自宅に向かっていると、上空を鳩が2羽飛んでいました。
しかもその飛び方が旋回をしているようです。どうやら我が家を中心に旋回しているように見えました。
嫌な予感が、、、。
飛んでいる鳩を見上げながら、全力疾走で自宅に帰りました。案の定、鳩小屋の出入り口のドアが開きっぱなしになっていたのです。
どうして?
理由はわかりませんが、親鳩は空いたドアから出たようです。逃げるつもりはないと思います。大切な我が子がいるので。ただ、戻り方がわからなかったのかもしれません。
鳩は帰巣本能がありますが、周囲のことを見慣れさせていないと迷子になってしまいます。親鳩は小屋から見える風景しか見慣れていないので、上空から自分の家を見つけることができなかったのかもしれません。
夕方、上空にカラスが飛んできて、親鳩は追われるようにどこかにいってしまいました。
700円が、、、とは思わなかったです(汗)。あのときは、ヒナをどうしたらいいのか、それが一番の心配でした。
その後帰宅した父が、呆然と立っている私を見て、こう言いました。
「おまえが育てるしかないやろ」と。
そしてヒナを自宅に入れ、差し餌をしてくれたのです。
ヒナも孵化して2週間経っていたので、特別の餌ではなく鳩の餌の中から小さいシードを選んであげました。
本当は父は鳥が好きだったのです。あのとき怒ったのは、貴重な車をヘッドライトをつけっぱなしにしたこともあるかもしれませんが、無計画に尊い命を迎えたことへの怒りだったのかもしれません。
尊い命をお迎えするときは衝動買いではなく、予め準備をすることを父から教わったようです。
さてヒナですが、さすがにお腹が空いていたようで貪るように食べてくれました。この日を境に私がヒナの親代わりです。
名前を「ぴーちゃん」と名付けました。鳩なのに、、、という突っ込まれそうですね、、、(笑)。
ぴーちゃんは成長すると、「手乗り鳩」になりました。私の人生の中で、「繁殖」と「手乗り」という鳥と深く関わるきっかけを作ったエピソードです。
拙い話をお付き合いいただきましてありがとうございました。次回から本格的な繁殖のことをお伝えしたいと思います。
(画像はイメージです。出典は以下サイトより)
コメント
コメント ( 2 )
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東京オリンピックが鳩ブームの火付け役だったのですね。
昭和40年代ですが、私の通っていた幼稚園でも大きな鳩小屋があり6歳組さんが鳩の世話をしました。駅にもたくさん鳩がいて皆、それを受け入れていたような…
今のように鳥害などは言われていませんでしたね。
昔は鳩は平和のシンボルでした。また当時は犬、猫の動物病院がほとんどなく、鳩を診てくれる病院が多かったようです。時代とともにいろいろなことが変わってきますね。